私とシーレと人形と
宮崎郁子
私が初めて人形を作ったのは10歳の時だった。
父がお守りのように大事にしていた小さな手作りの布人形をもらえなかったことで、私は自分で人形を作る喜びを知った。それ以来、途切れることなく人形を作り続けている。その人形は、アイドルや好きな人、結婚してからは子供たちがモデルとなり、子育ても一段落した40歳の頃、書店の画集で初めてエゴン・シーレ作品と出会った。1995年、阪神淡路大震災が起き、地下鉄サリン事件が世界を震撼させた年であった。
シーレ作品には人間の真実が描かれていて、心底感動を覚えた。
生活に疲れ果てていた私はシーレ作品に接して、忘れていた若いころの自分を徐々に取り戻し、そしてシーレは私のアイドルとなった。
シーレと共に。
気が付けば、シーレ人形を作り出してから、もう30年近くになる。
シーレ人形の初めての発表は、1998年、倉敷のギャラリーでの個展、ちょうどシーレ没後80年であった。その時来てくださったお客さんのひとりから「ウィーンで個展をしたら」と言われたことから、「シーレ没後100年にシーレゆかりの地での個展開催」が私の人生の目標になった。
とはいえ、まだ20年も先と悠長に構えていたが、こんな私を多くの人が応援してくれるようになってもシーレゆかりの地での個展への手がかりはないまま時は過ぎていった。
2014年、朗報が入った。シーレの母親の出身地であり、シーレが一番好きだった街、チェコのチェスキー・クルムロフ(現在世界遺産として登録されている)に現存するシーレのアトリエがリニューアルされて、アーティストレジデンスの場として提供されるという。応募してみると意外なことにすぐにOKの返信が入った。私はシーレ没後100年の1年前2017年の11月に滞在させて頂くことにした。もちろん、次の年にこの地のどこかで小さくても個展をさせてもらう足がかりを作るためだった。
3年間で思いつくことすべての準備を整え、いざ、チェスキークルムロフへ!
3年も経つうち、私はシーレが暮らしたアトリエで自分の作った等身大シーレと一緒に一か月間暮らしたいという妄想が膨らんできた。球体関節人形の等身大シーレは12分割できるので、3つのスーツケースや箱に詰めて、手持ちで連れて行った。幸いにも行きは友達姉妹が一緒に来てくれたので大助かりだった。
チェコで私のシーレ人形は大人気で、なんと私はシーレ没後100年の2018年、チェスキークルムロフのエゴン・シーレ アートセンターでの個展の切符を手に入れることができたのだ。等身大シーレは個展の時まで預かって頂き、その間にオーストリアの映像作家ベルナデッテ・フーバーさんがコマ撮りのアニメを制作した。6月のアニメ完成を待って、私の個展は開催された。その後、私の作品はエゴン・シーレ アートセンターのシーレの部屋で常設展示されている。