ふたつの似姿展
会期:2024年11月1日[金]-11月22日[土]
開廊時間:11:00ー18:30 日曜休廊
似て非なるもの
― 「ふたつの似姿」展に寄せて
水沢 勉
似ているな。
わたしたちはどうやってそう認識するのだろう。すこしでもそこに悪意ゆえのズレが感じられれば「これは偽物だ」と呟く。でも、それが芸事だとすれば、たとえば、ものまね芸人の場合、あえて下手な破綻を前もって計算済みにしておかなければ、お笑いの「受け」は期待できない……
あまり日常的には使われていないかもしれないけれど美術の分野には肖似性という言葉がある。読みは「しょうじせい」。「肖似」という単語は手元の『広辞苑』(第五版第一刷、1999年)にこう記載されている。「よく似ていること。」
それを抽象化した「肖似性」は、美術史の基本用語のひとつ。肖像画を論じるときには肖似性と写実性は欠かせない概念なのだ。モデルにどれだけ似ているか(肖似性)。それをどうやって正確にあたかも目の前に現存するかのように表現するか(写実性)。そのふたつが相俟って、結果「似ている」平面と立体の表現が成立する。
肖像シリーズで木口木版の世界に柄澤齊が驚くべき新機軸を打ち出したのは、1981年、いまから40年以上前のことである。シリーズの第一作は、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)がモデル。とはいえ、だれもが音楽関係のチラシやCDなどのヴィジュアルで親しんでいる、ドメニコ・フェッティ(1589-1623)作の油彩による肖像画(エルミタージュ美術館蔵)は、じつはモンテヴェルディそのひとがモデルではなく、同時代のコメディア・デアルテの俳優であろうと現在は推定されている。柄澤作品を手に取るならば、木口木版ならではのミリ単位以下の稠密な線の集合体が、原作の湛える初期バロックの濃い表情豊かなマチエールを線描の平面へとまさに換骨奪胎させていることにいまなお新鮮な刺激と発見が宿っている。主人公に、仮面を、正面を向くように持ち替えさせたのが効いている。
一方、宮崎郁子は、1995年の阪神大震災と地下鉄サリン事件を機に、それまでの人形制作の枠組みを打ち破る模索を開始し、エゴン・シーレ(1890-1918)の画集との出会いによってシーレの絵画作品から三次元の感覚を引き出し、それを人形化することを試みはじめた。最初は小品が多かったものの、やがて等身大以上の大作がつぎつぎと生まれてわたしたちを驚かせた。そのなかでも2013年に生まれたほぼ等身大の少女《チェックの服を着た女の子》では、シーレの原画は、モノクロの大まかな素描であり、色彩もなく、細部も省略されていたにもかかわらず、作者は足りない部分を自身の想像力を駆使して大胆に補い、自身の少女人形として完全に変身させてしまったのだ。
いま、お二人は、「ふたつの似姿」展に向けて新作を仕上げられている。
わたしはともに未見。柄澤さんは、なんと木彫着色によるグスタフ・クリムト(1862-1918)の肖像に挑んでいるとのこと。木彫像は初めての試み。宮崎さんは、近年取り組みつづけてきたシーレの恋人ヴァリー・ノイツィル(1894-1917 「ヴァリー」は愛称。正式にはヴァルブルガ・ノイツィル)のやや変則の胸像をほぼ完成させたようだ。クリムトは、あの猫を抱いてアトリエの前に立つ、よく知られたモノクロ写真が基になっているものの、それをただ写すのではない奔放な制作過程にあると思われる。ノイツィルは、特定のシーレの描くヴァリー像に依拠するわけではなく、数多くのシーレ作品や現存する歴史的写真に基づき、まさに練成されたヴァリー像が生まれつつあるはずだ。
似て非なるもの。
厳密にはどんなに肖似性と写実性が追求されていてもどこかはズレ、異なり、非なるものとなる。むしろ、その非なるものこそが創作の個性を明らかにする。創作において信憑性は問われない。「詩と真実」というときの真実性こそが露わになるかが肝心である。
その態度においてふたりは「似て」いるかもしれない。でも、仔細に観察すれば「非なり」がふたりの真実を明らかにするだろう。展示公開への期待は尽きることがない。
(MIZUSAWA Tsutomu 美術史家・美術評論家)
詩画集『卵』(1970年)と版画集『方丈記』(1993-1994年)を展示致します。
日和崎尊夫 詩画集『卵』は、詩人嶋岡晨との共作で、日和崎の作品を見て嶋岡が一気に詩を書き上げました。日和崎の代表作のひとつでもあり、現代木口木版画の記念碑と位置づけられる作品です。「卵と樹木の持つ生命のようなものを、宇宙的な広がりと交錯させながら、生の原質を版面に刻み込んだ」と日和崎が語るように、年輪と交感することにより刻み込まれた闇黒と光芒の宇宙は、底知れぬ凄みを帯びています。
柄澤齊 版画集『方丈記』は、鴨長明のテキストによる16点の版画からなる連作で、日和崎尊夫追悼の思いを込めて創られた作品です。
他に手掛ける者のない木口凹版の技法が用いられており、柄澤作品の中でも極めて抽象的に表現された作品です。長明が身のよりどころとした小さな方丈は、版を生のよりどころとする版画家の「方丈」に時空を超えて繋がります。
お二方の作品からは、現代にも通じる人類に対する根源的な問いがあるように思います。
世界が大きく変容する今、両作に宿る普遍的な生のかたちに、それぞれの思いを巡らせ、刻み込まれたことばを感じて頂ければ幸いです。